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邪馬台国=奈良県桜井市。決まりですか??? 邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説も...
邪馬台国=奈良県桜井市。決まりですか?????????
邪馬台国の女王、卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(前方後円墳、全長280メートル)について、古墳の周囲から出土した土器の放射性炭素年代測定と呼ばれる科学分析の結果、西暦240~260年に築造されたとの研究成果を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが研究成果をまとめたことが29日、わかった。248年ごろとされる卑弥呼の死去した年代と合致し、邪馬台国の所在地論争に一石を投じそうだ。31日に早稲田大学で開かれる日本考古学協会で発表される。
- 回答 -
魏志倭人伝の記述で、方角の違いだけで邪馬台国が巻向遺跡と断定でき、巻向遺跡から出土した建物跡も、魏と国交を持ち、魏の文化を取り入れた形跡があることが判り、その巻向遺跡の南に位置する箸墓古墳の建造が卑弥呼の死期と一致するのなら、邪馬台国は巻向遺跡で決まりでしょう。
また魏志倭人伝に記載ある卑弥呼の墓と、箸墓古墳の後円部の大きさがほぼ一致。そして魏志倭人伝に登場するような者がいれば、当然、日本書紀にも記載があるはず。
三世紀初頭から中期にかけて、邪馬台国の女王卑弥呼ぐらいの活躍があり、大きな墓に葬られた倭迹迹日百襲姫こそが、同一人物であると思えます。
九州説は、江戸時代の学者が魏志倭人伝を読んで、推測しただけにすぎず、当然、奈良県桜井市(箸墓古墳・巻向遺跡)にあるような、強烈な証拠を提示できないものと思えます。
邪馬台国は奈良県桜井市ですが、他の候補地とされる所の方が、邪馬台国が畿内にあったことを認めようとしないだけです。
また土器の放射性炭素年代測定で、西暦240~260年頃に作られた土器と判明したようですが、その当時の土器が出てきたと言うことは、少なくとも、土器と同時期か、それ以前に箸墓古墳が建造されていたといえると思います。
箸墓古墳の建設時期、巻向遺跡等、邪馬台国が桜井市以外にあったことを結論づけられるだけの証拠を出せる所があるでしょうか?
他は、魏志倭人伝の解析や神話など、空想上の話しにしか過ぎず、論外といっても良いのでは?
【追加】
この倭国(日本)の中で、推測は論外として、九州において、三世紀中頃に邪馬台国があったとする証拠を出せるのでしょうか?
魏志倭人伝が邪馬台国と卑弥呼のことを記載しています。
今、通訳を介さず、中国や韓国に行って文字も使わずに言葉だけで会話できるかといえば、意味は通じにくいと思います。
当時の魏人が、当時の倭国のことについて、魏志倭人伝に残してくれたからこそ、邪馬台国や卑弥呼と呼ばれた国や人物が、この日本に存在していたことを実証してくれるものであり、その邪馬台国が何処にあったか、また卑弥呼が誰なのかは、今の日本において、同一とされる地域や人物を特定しなければならないと思います。
それに一番近いのが、上記理由からも桜井市が邪馬台国であると思えますし、仮に九州が邪馬台国だと主張がされたとしても、距離にしても魏志倭人伝から考えたものであるから、結果的に、九州説でも、また大和説でも魏志倭人伝に頼らざる得ないのが、今の状況です。
その上で、魏志倭人伝に記載された内容と、ほぼ一致する墓、また当時の遺跡が発掘されたことからも、九州が大和説を抜くことは不可能に近いのではないか?と感じます。
(この記事は「Yahoo知恵袋」より引用させて頂きました)