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奈良県出身の土倉庄三郎{明治の林業王と呼ばれたらしい)について誰か知りませんか?
奈良県出身の土倉庄三郎{明治の林業王と呼ばれたらしい)について誰か知りませんか?
- 回答 -
以下、川上村HPからの抜粋です。なお川上村大滝にある林業資料館に同氏の資料が数多く残されています。なお、写真は土倉翁の功績をたたえるため、岸壁に掘られたもので、1字が畳1枚分の大きさです。
地図は写真の場所です。
吉野林業の中興の祖と呼ばれる土倉庄三郎は、天保十一年(1840)年に川上村大滝の山林地主の家に生まれました。16歳で家督を継いだ彼は、林業の発展に力を入れ、後に苗木の密植とていねいな育成で優れた多くの材木を生産できるように工夫した「土倉式造林法」という独自の造林法を生み出しました。そして地元の吉野だけではなく全国各地(群馬県伊香保・奈良公園・兵庫県但馬地方・滋賀県西浅井町・台湾など)にその技術を広め、各地で成果をあげていきました。また借地林業や村外地主の森林所有者による経営、これに伴う山守制度(管理制度)などの基礎を築くなど、吉野林業の父といっても過言ではありません。
土倉庄三郎は、事業のかたわら、道路の整備や吉野川の改修など公共事業を推進や日本赤十字への寄付など社会貢献にも努めました。また、私費によって奈良県初の小学校を川上村に開校したり、同志社大学や日本女子大学の創立にも一役かっています。板垣退助の洋行を援助するなど自由民権運動にも力を注ぐなど、林業以外の分野でも多大な功績を残しています。
土倉庄三郎は、吉野大滝村で生涯を過ごし、1919年7月に78才で多くの人々に惜しまれながら死去しました。1921年10月には生前の功績を記念して、川上村大滝の鎧掛岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立されています。
川上村の山の緑がいきいきと輝くのは、今も土倉庄三郎の熱い魂が村に息づいているからでしょう。そして、木を愛し、木と生きた偉人伝は語り継がれ、その魂は山を、そして自然を愛する川上村の人たちに受け継がれています。
(この記事は「Yahoo知恵袋」より引用させて頂きました)